私に大きなきっかけをくれた出会い

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自己紹介

はじめまして。

本日からブログ更新をしていきます。

TENSHIN(テンシン)と申します。

特別支援学校で8年間勤務し、現在は小学校の特別支援学級を担当しながら、通常学級の児童の必要な支援について検討をしています。

本ブログでは、特別支援教育における理論と実践を発信していきます。

私の趣味に近いブログにはなりますが、教員、保護者、当事者の方々にとって有益な情報となれば幸いでございます。

初めての投稿記事

本日が、最初の記事となります。

書き記す内容は、コレにしようと決めていました。

『未熟な教育者であった私に大きなきっかけをくれた出会い』

採用試験合格から4年目となり、教員として少しずつ自信を持ち始めてきた頃。2017年でした。

筋ジストロフィーの福山型である高校2年生と出会いました。

出会った時に、彼が自分の意思で動かせるのは、右手の手首と指、そして頭、首でした。

国語や数学などでは、一緒に鉛筆を持ち、薄い文字で書いていました。

いや、恐らく本人は書いている意思はなかったと思います。

学習の合間には、車いすから降り、体を休める時間が必要でした。

内臓への負担を減らすため、呼吸の確保のため、硬直の進行を抑制するために、リラクセーションやマッサージを行う必要がありました。

給食では、ペースト状の食事を教員が食べさせる介助が必要でした。しかし、その栄養だけでは十分ではないため、「胃ろう」という、胃に穴を空けて、直接栄養を送り込む医療的介護が必要でした。

トイレでは、教員が彼を抱きかかえ、便器に座らせるということが必要でした。

そんな日常は、私にとっては当たり前であったし、何より彼と関わっている時間は楽しく素敵な時間であったと今でも鮮明に覚えています。

そんな学校生活が1ヶ月、2ヶ月と過ぎ、私の中で指導がしっくりと来ない感覚があったので、改めて筋ジストロフィーという障害について調べてみることにしました。

障害の特徴について 以下の記事を参考にしました。https://www.shouman.jp/disease/details/11_20_049/

「まずい・・・」と時が止まり、そして追いかけるように衝撃が走りました。

「彼にとって、学校はどうあるべきなのか。」、「このままじゃいけない。」

考え続けた結果、1冊の書籍に出会いました。

『アドラー心理学入門』~岸見一郎~1999年初版

この中に、こんな一文がありました。今でも私の根幹となっている考え方です。

「人は自分が意味づけした世界に生きている」

「あぁ、そうか。」と心がスッと軽くなり、やることがハッキリと分かりました。

次の日、私は彼に尋ねました。

「学校で何をしたい?」、「私に何をして欲しい?」

今まで、『私に何ができるのか』を考え続けてきました。

しかし、それは彼の世界を私が意味づけしようとしていることに気が付きました。

私がすべきは、『彼の世界を、彼が意味づけする』ことができるように支援することなのだと気づくことができました。

そして、彼はハッキリと答えてくれました。

「先生みたいにパソコンが使えるようになりたい。」

そこから、全てが一気に走り出しました。

⑴彼が使える(家では既に使っていた)パソコンを学校へ持ってきても良いという許可をとった。免責事項の確認をした。

⑵彼が、車いすから降りて、寝た姿勢でパソコンが使えるように、教室にベッドが置かれた。

⑶国語・算数などは、パソコンでノートがとれる。問題が解けるように授業を変更した。

⑷自立活動では、彼が特に興味を持ったPowerPointの操作、デザイン等を学習した。

⑸パソコンを使った宿題を出せるようになった。

2023年の今考えると、もっとできることはあるだろ!という思いですが、

それでも、少しは彼の力になることができたと実感できました。

私のやったことは、考え方を変えたことだけです。

教員という仕事は、大変真面目な方が多く、使命感の強い方が多いと思います。*私も当然強いですよ!

しかし、その使命感は、「子供たちにこうなってほしい。」、「〇〇の力を付けておいた方がよい。」、「将来絶対必要。」と教員の描く子供像、将来像へと向かわせてしまうことが多いのではないでしょうか。

少し話が脱線しますが、小学校、中学校では、学習指導要領(教員が指導する時の指針)に沿って、教育課程を進めていくことが大前提です。これによって、日本は戦後立ち直り、世界における経済大国となることができました。この学習指導要領については、私が口を出すべくもなく、これまでの知見の集合体であり、子供たちにとって必要な学習内容が示されています。

しかし、教員の仕事はこれを教えることではないと私は思います。

シンギュラリティという言葉がありますが、これからは間違いなくAIの時代です。教員の数は不足しています。教員の質を担保することが難しい時代になっていると思います。学校現場で、AIが活用される場面が増えてきます。最適や最善の教育を目指すのでは、恐らくAIに負けてしまいます。

そうなった時、学習内容を教えるだけの教員は、どのくらいの価値があるのでしょうか。

これからの時代に求められる教員は、学習内容の意義を一緒に考えること。学習を子供が意味づけすること。学習方法・学習方略を見つける事。その支援をすることだと私は考えています。その人にとって、最も納得のいく教育について一緒に考え、最良を目指すということが必要になってくるのではないか。そんなことを考えています。

私が、今こんな記事を書いているのも、こんな風に考えることができるようになったのも、全て彼との出会いがきっかけとなっています。

彼は、今20歳を超えて、時々ではありますがLINEで連絡を取り合います。

ここまで、彼との思い出ばかりなので、ある人に怒られます。

彼のお母様のご協力がなければ、全て絵にかいた餅でした。本当に感謝しています。

ありがとうございました。

私の教員としての軸は、

 「(子供たちが)自分が意味づけした世界に生きていけるように、支援をすること」

判断に困った時は、『子供たちが、自分の世界で意味づけができているか。』ここを基準にしています。この【意味づけ】は、【納得】、【主体的】、【自律的】、【自立】などの意味が複合的になっているイメージです。まだまだ綺麗に言語化するに至りません。目指していきます。

さて、長くなりましたが、これが【今の私をつくった出会い】でした。

ここまで読んでいただき、ありがとうございました。

TENSHINでした!

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